百済の面影・扶餘の旅

よぎちょぎ扶餘

「定林寺址」のあの方に会う

私が扶余へ10年も通っている理由。

それは百済時代の「定林寺」という寺の跡に残された石仏坐像に会うためだ。 風化して溶けてしまいそうな、この石仏さんがいる定林寺址とは いったいどんな場所なのか、というと…

朝鮮半島が、高句麗、百済、新羅にわかれて争っていた三国時代に、 「扶餘」は百済最後の王都だったところ。百済が唐と新羅の連合軍に攻めこまれた時には 同盟国の倭国(日本)からも援軍を送り出して一緒に戦ったけど大敗を喫したことはあまりにも有名(白村江の戦い)。

日本はこの負け戦による危機感をバネに国家体勢を急ピッチで整え国号を「日本」と改めて新国家を誕生させたわけたが 百済は敵軍によって徹底的に破壊され尽くしてしまった。 (したがってこの地では残念ながら見るべき史跡はほとんど何も残っていない)

たった一つの例外、 それがここ定林寺址に残る五重石塔(国宝第9号)だ。この塔が破壊をまぬがれた理由というのがまた屈辱的で悲しい。

唐の大将、蘇定方(ソ・ジョンバン)が塔身に火を放ったあと 「大唐平百済国碑銘」と題する碑文を刻みつけたのだ。 これは「百済を倒し唐がこれを治める」 といった意味。つまり戦勝記念塔にされたがゆえに破壊されずに残り、1400年もずーっとここに立って、いろんな歴史を見てきたのだ。

扶餘には滅亡にまつわる伝説がほかにもあるのだが、 日本人好みの「滅びの美学」みたいなものが町全体に立ち込めている気がする。

(2011年10月1日掲載)

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